複雑化する社会と、地域包括医療と、メンタルヘルスケア

最近内田樹先生が、こんなことをつぶやいておられました。

  

ことたくさんの人を巻き込んだ仕組みづくりとかの話になると、個人レベルの細かいことを無視して「共通言語」を重視せざるを得ないので「単純化」せざるをえません。

価値aを持ってるAさんと、価値aと価値bを持ってるBさんと、価値cを持ってるCさんがいるときに、共通言語として価値aが社会的な価値軸として定められると、Aさんはありのままでいいけど、Bさんは価値bは社会的に認められづらくなるので価値bに沿った活動は減っていき、価値a寄りに変化する。Cさんは、自分の価値が社会的に認められないので、生きづらくなって、結局価値aに迎合せざるをえなくなる。ここでいう価値aは、今の社会で言うならば当然、資本主義の共通言語である「貨幣」と自然科学の共通言語である「エビデンス重視」です。

でもそれって、むしろ社会として「退化」してるよね(価値aを重視した結果、せっかく生まれた価値bや価値cなどの多様性が衰退してしまう)、複雑になることを選んでいかないと、社会として成長しないよね、という話のようです。退化とか進化とかの概念はともかくとして、少なくとも今までの社会では、この単純化の論理が働くことが多かった。

というのを前提に、最近はどんどん進んでいる社会の複雑化の事例の話。

学会で感じた「地域包括医療・ケア」の実態

先日とある学会にお邪魔した際のひとつのテーマとして、「地域包括医療」が盛り上がっていました。最近よく耳にする地域包括医療は、定義上はこんな感じ。

  地域包括医療・ケア(システム)とは

・ 地域に包括医療・ケアを、社会的要因を配慮しつつ継続して実践し、住民が住み慣れた場所で安心して生活出来るようにそのQOLの向上をめざすもの
・ 包括医療・ケアとは、治療(キュア)のみならず保健サービス(健康づくり)、在宅ケア、リハビリテーション、福祉・介護サービスのすべてを包含するもので、施設ケアと在宅ケアとの連携及び住民参加のもとに、地域ぐるみの生活・ノーマライゼーションを視野に入れた全人的医療・ケア
・換言すれば保健(予防)・医療・介護・福祉と生活の連携(システム)である
・ 地域とは単なるAreaではなく、Communityを指す

 (出所:全国国民健康保険診療施設協議会

なるほど、わかったようなわからないような。「結局どういうこと?」と言いたくなります。そんな気持ちで学会の発表を聞いていたところ、複数の登壇者のこんな発言。

「地域包括ケアは、それぞれに定まった定義はないくらいふわっとしている」
「地域包括ケアシステムは謎である」
「我々も地域包括ケアのどこに位置するんだかわからない」

 

ふわふわ… 謎… わからない…

誰もよくわかってない…!!

 

ということがよくわかりました。

というよりは、地域包括ケアは大事な考え方で、実現していかなければならない、ということははっきりしているんだけど、その全体像や方法論は説明しづらい。

ちなみに厚生労働省によれば

地域包括ケアシステムは、保険者である市町村や都道府県が、地域の自主性や主体性に基づき、地域の特性に応じて作り上げていくことが必要です。

つまり、地域の特性に応じて「最適な地域包括ケアシステム」のあり方が異なるので、「で、結局どういうこと?」という単純な理解がしづらい構造がある、ということです。ちなみに概念図がこちらです。

 

 地域包括医療の概念図(出所:全国国民健康保険診療施設協議会

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…複雑。

従来型の医療は「医師」が「患者」を治す、という二者関係のシンプルな構造でした。それが、その仕組みではどうもお金・人といったリソースが足りそうにないし、個別化したニーズを満たすこともできそうにない、となったときに「地域包括医療・ケア」という動きが生まれます。そして地域包括医療、となると、方法論や当事者が増えて、価値軸が増えて、人口とか関係性とか資源とかの変数も増えます。

今までの画一的な医療のあり方から、地域医療にシフトしていくというのは、近代社会の中で単純化した枠組みを「再・複雑化」させていくことでもあります。だから、単純化した仕組みをつくるよりも難しいし、つかみどころがなくて、「単純化」のプロセスよりも時間とエネルギーが必要なのでしょう。

全員にわかるように絶対的価値に基づいた定型を「定義」するよりも先に、モデルケースをいくつもつくっていく。そして自分のところに近いモデルケースを、それぞれが工夫しながらあてはめていく。その中には試行錯誤が必須で、間違えたり、失敗したりしながら、少しずつ複雑なエコシステムが育っていくのだと思います。

メンタルヘルスケアの世界の単純化と複雑化

心理療法の世界も、社会の単純化の流れとともに変化してきました。

一対一の関係性や個別の物語を重要視した、ある意味非効率で複雑な力動的心理療法から、エビデンスプロトコルを重要視し、相対的には効率的で単純化可能な認知行動療法へ、というこの数十年でのシフトはその象徴的な流れだったのだろうと思います。

cotreeはインターネットを活用したオンラインカウンセリングのサービスですが、一見すると今まで1対1の複雑な人間同士のつながりであったものをデジタル化するような、「心のケアを単純化する」という世界観に基づいているように見えるかもしれません。

まずは単純化した世界観をオンラインで再現する、という目下の課題も確かにあるのですが、将来的に目指すところは、心のケアの「再・複雑化」なのかもしれません。

今までにも「テクノロジーでできることはテクノロジーで代替する、その分、人にしかできないことを人が存分にできるような仕組みづくりをする」という言い方をしてきましたが、これって新しい技術や知見の蓄積や効率的な方法論の採用によって、一度単純化した心のケアを、再度複雑化することを可能にする、ということなのかな、と再認識しました。

つまり、限られた資源の中でも単純化されない個々人に最適なケアを、ひとりひとりの相談者に届けていく、というのが、cotreeが思い描く「いつか実現したい未来」でもあります。

自分たちだけで実現できるとも思っていないし、そんな壮大な絵を語るのが憚られるくらいにまだまだ小さな一歩を踏み出したにすぎないですし、cotreeがその複雑化した未来の中の一翼を担えるといいなぁ、くらいの感じではありますが、そのために今何ができるんだっけ、という試行錯誤と、地道で小さくて単純な作業に向き合う毎日です。

あんまりこんな抽象的なことを考えても、現実としてできることは限られているのですが。

社会の中でcotreeが果たす役割はなんだろう、という考え事の言語化として。

そして、一緒に試行錯誤してくれる仲間(cotreeのメンバーとしても、広く業界の仲間も)を募集しています。cotreeのメンバーとしては、今は特に、心理職の方を募集しています。ぜひご連絡ください-> sakuramoto@cotree.jp

起業家の4類型:特に社会起業家の視点で。

最近、仕事人としてはけっこうなスランプに陥っていました。 というのも「対人援助の本質」に触れる機会があり、私自身の価値観が大きく揺さぶられた時期だったのです。

対人援助の世界では新参者である私が、素晴らしい対人援助のあり方に触れ、「こころの治療」とはこういうものなのだと、今まで持っていた認識を大きく変える(広げる)ことになりました。

もともと、cotreeは私自身が精神科医療を受診した際の経験をもとに「こころのケアってもっと普通に、医療外で、多くの人に届かなければいけない。」という問題意識を持ち「そのためにはインターネットも活用し、もっと効果的で効率的なあり方を探りたい」という思いを抱いたことが原点です。

けれど、効率性を求めるために犠牲にせざるをえないものの重要性みたいなものを知れば知るほどに、葛藤は大きくなっていくわけです。 その葛藤を言語化したのが前回のブログです。がっつり葛藤していますね。

私の場合は、課題解決のために「良き(正しい、効率的な、効果的な)サービスをつくりたい」という思いがあったので、知らなかった真実を知れば知るほど「良さ(正しさ)」が移り変わってしまうジレンマを抱えていました。自分の視点が広がり、価値観が変化すると「このサービスはこのやり方で良いんだろうか?」と悩んだりします。

こういうことを考え始めると、まぁ日常の仕事は進みません。

ソーシャルベンチャーあるある①:会社=社長の創業期

ベンチャー創業期、サービスが小さな時期は、会社=サービス=社長であることが多いように思います。会社やサービスに社長の価値観や個性が大きく反映されるし、コンセプトをつくるのもサービスを売りにいくのも社長です。いつしか会社のアイデンティティ=社長のアイデンティティになってしまうのかもしれません。

特に社会起業家の場合は、社長が抱えた問題意識をきっかけに、社会問題を解決するのだ!という強い意志を持ってサービスを立ち上げていることが多く、会社そのものが社長のライフワークになっていくのですよね。

でもそうすると、事業が進む中で自分の価値観が揺らいだときや、もともと設定していた「問題」の見え方が変わっていったときに、会社そのものの方向性が揺らいでしまうことになります。

ソーシャルベンチャーあるある②:問題を解決したい!の罠

また、問題解決型のソーシャルベンチャーは、「問題」ばかりを見て、取りうる選択肢が狭まって八方塞がりになってしまう、ということも起こります。

「問題」というのは明確な実態を持たないことが多く、定義付けによっていかようにも変化し、解決しても解決しても形を変えて出てくることが多いのです。

私が今までにお会いした先輩NPOやソーシャルベンチャーの経営者にも「当初サービスを始めたときに見えていた課題が当初思っていた全体像と異なっていた」ということをきっかけに、停滞したことがあると語っておられた方が何人もいます。ある人はサービスの方向修正を行い、ある人は葛藤を抱えたままサービスを運営しておられました。 

事業運営の中でのふたつの軸

どちらが良いということはないのですが、上記のあるあるは、起業をするうえで持つべきふたつの軸のヒントになるように思います。

自己のニーズー他者のニーズの軸

ひとつは、会社=社長を切り離すのか、切り離さないのか。 もっと言えば、ソーシャルビジネスの場合は「自分がやりたいこと=会社がやること」、営利企業の場合は「自分の利害=会社の利害」にしておくのかどうか。

自分の価値観に沿って会社を運営するという選択をして、会社=社長を維持するのであれば、自分がやりたいことをやりたい方法でやり続けられます。一方で、個人レベルの変化に対応する柔軟性を保つために小さな組織であらざるを得ない、という壁にぶつかります。

それに対し、会社と社長を切り離し、他者視点にシフトすることで、自分の変化に揺さぶられない、より安定した、大きな組織を目指すことができます。

現在の問題ー実現したい未来の軸

もうひとつは、「今ここにある問題」に視点を持つのか、「実現すべき未来」からの視点を持つのか。

「問題を解決しよう」と思うと、目の前の乗り越えなくてもいい壁に気を取られて、実現したい未来への近道が見えなくなってしまうことが多いようです。もしかしたら、実現したい未来が実現しない理由は、その問題の存在が理由ではないのかもしれない、という可能性に鈍感になります。方法論に囚われてしまうことも多い。

一方、未来からの視点で見ることで、同じ未来を 実現するための、複数の道筋が見えてきます。

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特に「自分の」「問題意識」を起点とする社会起業家の場合、この2軸の壁に、遅かれ早かれぶつかるケースは多いのではないかと思います。

このときが、「自分が」どんな「問題を解決したい」のか?ではなく、どんな「未来を実現する」のが「必要とされている」のか?という観点から役割を再構成する時期なのかもしれません。

視点の2つの軸と起業家の4類型

このことについて考えていたら、なんかいい感じでグラフができました。

これによると、起業家のタイプは4種類に分けられます。

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① 自己愛型起業家(自分の欲求x現在の課題)

今自分が持っている問題意識を、自分のやりたい方法で解決したいタイプ。個人的な劣等感や満たされない感が原動力になる「もっと認められたい」「今の仕事が苦しい」だけでなく「この社会的問題を『自分が』解決したい」というのも含まれます。問題が社会的問題解決の体裁をとっているときにはわかりにくいのですが、NPOとかソーシャルベンチャーは結構な確率でこの領域でとどまっているのかもしれないと感じます。自己満足の領域。

自己実現型起業家(自分の欲求x実現すべき未来)

自分がもっと成長したり、裕福になったり、なりたい自分のイメージに近づくためにがんばるタイプ。営利企業には多いパターン。

③ 課題解決型起業家(社会の必要性x現在の課題)

社会が抱えている課題を解決する必要があるから、その課題のために「自分がどうしたいか」を切り離してがんばるタイプ。良きNPOやソーシャルベンチャーに多いパターン。

④ 未来実現型起業家(社会の必要性x実現すべき未来)

他者視点のニーズを基礎にして、未来視点で行動を決定する。社会的に大きなことを成し遂げるのは、営利も社会派もこの領域のひとたちです。多分。

ちなみに、大切なことは、他者視点と自己視点は必ずしも対立するものではなく、他者視点を持っているうちに、それが内在化されて自己視点になっていくことが多い、ということです。つまり、結果的には他者視点と自己視点が一致してくる。逆に、自己視点に囚われているうちは、なかなか他者視点になっていかないんだと思う。

同様に、実現したい未来を目指しているうちに、問題は重要性を失っていく、ということも起こります。…多分。

 

こんな感じで考えていくと、私が抱いていた、良き(正しい)サービスをつくりたい、というのは利他的な意図のように見えて、実は自己視点だったということに気づきます。自分が力になりたい人たちに、希望を生み出せるサービスをつくる。とてもシンプルなことですが、日々の業務の中で忘れないようにしたいことです。

 

ちなみに本質的なことを考えはじめると仕事は進まなくなります。

さて。仕事しよう。

 

カウンセリングは、基本は対面で。

と心から思います。

オンラインカウンセリングサービスを運営する身でありながら身も蓋もなくてあれですが、もうこれは全力で主張したい。カウンセリングを受けたいと思うなら、信頼できる専門家と、対面でじっくりと課題と向き合って、無二の信頼関係の中で少しずつ癒しと変化を得ていくのが何よりも素晴らしい、人生を豊かにする体験になると思います。

ここは、私自身もサービスを運営しながらものすごく葛藤を抱えるところでもあります。

私なぞが語るのは憚られるほどに、本来の内省的な心理療法は奥深いものであり、人間同士の「いまここ」での彩り豊かなこころのふれあいであり、効率や方法論を超えたものであると考えています。

「カウンセリングは、基本は対面で」と全力で主張したうえで、今の日本のカウンセリング業界の現実を見ます。

①良き専門家の不足

心理療法を本来の豊かなやり方で提供できる専門家が多く育っておらず、上述のレベルの心理療法ができる心理療法家の数が非常に限られている。その理由としては、市場規模の小ささを背景にした適切・十分なトレーニングの不足、教育制度上の問題、資格制度上の問題が挙げられます。結果として、本当に良き心理療法家にアクセスできる人は絶対数として少ないのです。

②経済的なハードルの高さ

良き心理療法の価格が非常に高い。理由としては、カウンセリングルームの稼働率の低さや保険制度上の課題が挙げられます。

③判断基準と情報の不足

良き心理療法とそうでないものとの判断基準や情報の不在。理由としては、心理療法は密室で行われるために評価が顕在化しづらいこと、明確な評価基準が存在しないこと、心理療法自体が多様な世界観に基づいていること。結果としてせっかくカウンセリングを探しても「いまいちなカウンセラー」に出会ってしまう確率も非常に高い。

要は、今の日本で良きカウンセラーに対面で出会うことがいかに大変か、ということです。

 そして、仮に全員が良きカウンセラーや精神科医に対面で出会えるくらいに供給と情報が十分であったとしても、本当にカウンセリングを必要としている人は、エネルギーレベルが落ちていたり忙しかったりして、対面のカウンセリングを気軽に使えるような状況にないことが多いわけです。(ブログを始めたときにも詳しく書いたことです。)

だから、その供給側の制約、需要側のニーズを満たす存在として、オンラインカウンセリングが担うことができる役割がある、というのが我々の考えです。

オンラインカウンセリングとか怪しいけど、エビデンスあるの?

上述のような課題を克服するためにじゃぁインターネット活用してオンラインでやるとする。でもそれって、エビデンスあるの?というのが問題になります。カウンセラーは言語情報だけでなく五感(六感すら)をつかって利用者のことを感じ取っているのであって、インターネット上で、言葉だけでできることは限られてるでしょ、というのはおそらく臨床に携わるカウンセラーであれば突っ込みたくなるところだと思います。

でも。

エビデンスは、あります。(言いたかった)

私の個人的な見解が入らないよう、こちらの書籍からの引用です。

エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究―クライアントにとって何が最も役に立つのか 

 非言語的なコミュニケーションが治療同盟を形成し強化することにおいて最も重要な要因の1つであると認められている(Bedi et al., 2005)ことを前提とするならば、対面式でないセラピー的介入は、実効性においてきわめて限定的であろうと推察される。しかし、近年電話やインターネットを使ったセラピーへの関心が高まっているのは、こういったコミュニケーション方式が、いくつかの明確な利点を持つことが認識されつつあることにもよる。その明確な利点とは、例えば遠隔地に住んでいたり、移動に関わる問題があったり、セラピー的サービスのコストを低減したり、さらにより迅速な援助を提供しうることなどである(Leach and Christensen, 2006)。加えて、研究は多くのクライアントが電話やインターネットによるセラピー形態にとても満足していることを示唆しており、対面式のアプローチと比較して治療同盟を豊かに形成できないということを示すような明確なエビデンスもない(例えば、Barak et al., 2008)事実、人はコンピュータを介したコミュニケーションにより、個人的な情報を実際に開示しやすくなることを示すエビデンスもある(Mallen, 2003)
 実効性という観点からみると、増え続けている多くの研究は、主に非対面式のやりとりに基づくセラピープログラムは高い有効性を示すことができ、対面式治療と大差ない結果をあげていることを示している(例えば、Barak et al., 2008; Leach and Christensen, 2006 )(中略)研究は、多くのクライエントが電話やインターネットによるセラピー形態にとても満足していることを示唆している。

 ウェブを活用したセラピープログラム(最小限のセラピー的コンタクトを含むものもあれば、含まないものもある)も広範な心理的問題に有効であることを示しており、とりわけパニック障害と不安障害に大きな効果量を示していた(Barak et al., 2008)。(中略)効果量は対面セラピーを受けたクライエントにわずかに劣るものの、全体的に大きな違いはなく、双方のアプローチとも満足度はほぼ同水準にあった。

 (中略)対面式のアプローチと比較して治療同盟を豊かに形成できないことを示唆する明確なエビデンスはない(Barak et al.,2008)。増え続けている多くの研究は、非対面様式のセラピープログラムは高い有効性をもたらすことができ、対面式治療と大差ない結果をあげていることを示している(Barak et al.,2008; Leach and Christensen,2006)。

オンラインカウンセリングの効果を示すエビデンスは、探すとほかにもいっぱいあります。

本当のことを言えば私は、対面の良き心理療法が提供することができるものは、エビデンスで示しえないことのほうが多いと思っています。良き心理療法がもたらすものは、恐らく抑うつ度指数の数値上の変化では計れないものです。数字では計れないけれど、人生をはるかに豊かにするものであるように思います。

それでも今の世の中、エビデンスという「共通言語」で示し得るものはとても大切です。カウンセリングは対人援助である以上、相対する相談者が大切にしている価値観に沿ったサービスを提供しようとするならば、効率性や、目に見える効果や、経済合理性といった価値観や世界観に沿ったカウンセリングのあり方を模索する、ということもひとつの価値の産みだし方であるとも思うのです。

くどい?

いやもうわかった、オンラインカウンセリングがいいし必要なのはわかったよくどいよ、しかも葛藤っぷりが前面に出てて対面がいいのかオンラインがいいのかわかりづらいよ、というリスナーもいるかもしれません(いないか)。

でも、なぜこの記事をあえてまわりくどく書いたかというと、神田橋條治先生の「治療のこころ」シリーズを読み直して、これはもう、心理療法に「効率」とか「方法論」とか「パターン」みたいな考え方を持ち込むこと自体が愚かであるような、本当にすいませんでしたと叫びながら顔を覆って逃げ出したくなるようなそんな気持ちになって、オンラインでは実現できない「治療のこころ」的な世界観を現実にする心理療法にもっとアクセスできる世の中になったらいいのに、と心から願う一方で、そことは少し違う世界観を持つ「オンラインカウンセリング」の存在意義について、改めて整理したい、と感じたからです。

そして改めて、

・オンラインカウンセリングは、効率性とか、経済合理性とか、目に見える治療成果を大事にするという価値観・世界観の中で極めて意義のある方法論であること。

・cotreeが目指しているのは、そのオンラインカウンセリングの可能性を最大化するための最適化された方法を全力で探っていくことであること。

・対面のカウンセリングにしか実現できない価値が(たくさん)あること。でも、オンラインでしか実現できない価値も(たくさん)あること。

・オンラインか対面かは、あまり本質的な議論ではなくて、それぞれの可能性と限界を把握したうえで、適切な方法で使うことのほうが大切であること。

という認識のもと、より多くのユーザーに対して、ユーザーが大切にしている価値を届けるべく、粛々とサービス改善を続けていきたいという決意を新たにするとともに、より多くの専門家の理解を頂けたら良いなぁ、と考えています。

 

 

オンラインカウンセリングのcotreeはこちらからご利用ください。

cotree.jp

 

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Morning Pitchに登壇させて頂きました

今日はMorning Pitchに登壇させて頂きました。

朝6:40集合で新宿の高層ビルの46階です。早い。けど緊張のせいか眠くありません。

 

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窓から見える景色がきれいです。スカイツリーも遠くに。早起きしてよかった。

 

 Morning Pitchは「ベンチャーと大企業との事業連携を生み出す」ためのプラットフォームで、大企業の方を中心に100人以上の方がお越しになっていました。

cotreeでは現在、企業向けのサービス提供を準備中なので、健康経営に対する意識を高く持っておられる企業様や、メンタルヘルス関連の新規事業に関心をお持ちの企業様に向けてcotreeのサービスについてお伝えでき、とても有意義な時間でした。鋭い質問もたくさん頂き、企業内でのメンタルヘルスに関する関心の高さを再認識しました。

 

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今日はヘルスケア特集で、登壇者は5名。「性病」「妊活」「薬」「老人ホーム」などのバラエティに富んだメンバー。リアルにはなかなか顕在化しづらい課題について、インターネットを活用することで新しい市場をつくっていくようなサービスが多かったです。課題感を共有できる、楽しい経営者ばかりでした。

 

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両側の赤いパーカーを着たトーマツのおふたりとは事前に何度も打ち合わせして、より効果的に伝えるためのアドバイスを頂きました。おかげでスッキリとプレゼンできました。本当に感謝です。

我々のように社会貢献と資本主義のはざまで「本当に儲かるの?儲ける気あるの?」と言われがちなベンチャーをやっていると、心折れそうなことも多いのですが、そんなとき、こうして支えてくださる方々がいるからがんばれている気がします。

ちなみに「儲かるの?」は公私ともに本当によく聞かれる質問です。よっぽど儲からなさそうなんだろうな。笑 

現実問題、儲けることを第一義には置いていませんが、その視点を無視しているわけではありません。その分葛藤は多いですが。

でもそんな中で「儲かっても、儲からなくても、道なき道を進んでるベンチャーが好きだから応援するよ!」と言ってくれる方々がいます。そういう方々と将来的にいろんな喜びを共有できるように、長期的な目線でいいサービスをつくりたいなぁ、と思うわけです。

「儲かるかどうか」はまたどこかのタイミングでブログに書こう。

今日はブログっぽいというか日記っぽいブログですね。

たまにはこういうのも。

 

 

人は明日を生きている

cotreeをつかってくれる(訪れてくれる)ユーザーさんの数の推移には結構波があります。

具体的に言うと

・曜日では、月曜日が一番多い

・週後半に向けて少しずつアクセスが減る

・金曜日と土曜日が底で、日曜日の夕方くらいから増えてくる

・時間帯では、夜10-12時くらいが一番多い

cotreeは落ち込んだときやなんとなく不調なときに使ってもらいたいサービスなので、逆に言えばcotreeを使ってくれる人が多い日というのは、落ち込んでいる人が多い日でもあります。ちゃんとは分析してないですが、天気とかも関係してそうです。

この件についてメンバー(エンジニア)とチャットしていたら、こんな感じで分析してくれました。

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【僕なりに過去からデータで見る推測できる人間の気分と行動(簡易版)】
月曜日:曜日の中で一番やる気がでない曜日(ノイズが大きい)
火曜日:月曜日から変わり、気持ちも変わってくるため、やる気が出始める(月曜日乗り切った感満載)
水曜日:週の真ん中なのでリフレッシュする余裕が出る(見直すタイミングがでる)
木曜日:水曜日に見なおしたはずなのに、なぜか疲れていて思うようにいかない(あれ、金曜日じゃないのかという錯覚)
金曜日:頭のなかは休みモードに突入して、「やらなければいけない」を一番嫌う(リラックスしたい)
土曜日:明日も休みというのが頭にあるため、最もリラックスする曜日でできれば他のことはしたくない(自分の好きなことをしていたい)
日曜日:一日の中での気分の落差が激しい。夜になると明日のことからで恐怖でいっぱい。(サザエさんシンドローム

 

おお、おお、そうだねそうだね!そしてもうひとりの慢性的寝不足エンジニアと、目の前のto do に囚われる私の浅ましさが際立つ深イイ一言。

 

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「ここで共通して出てくる要素って「明日」なんですよね。
興味深いのは僕も含めて人間は無意識に明日を基準にして生きているのかな?ということ。」 

深イイ。。。

日曜日の夜は、人は日曜日の夜を生きていないんですね。

明日への不安や期待を生きているんですね。

 

ほんまや。。。

 

と感慨深く感じたので、ちょこっと調べてみたら

気になりませんか?曜日別のアクセス数,土日は少なく平日は多い? - NAVER まとめ

一般的なwebサイトとそんなに傾向は変わりませんでした。笑

でも、振れ幅は他のサイトより大きいと思う。たぶん。

 

こんなことを言いつつ、このサービスをやっていると、「人とは」「心とは」と考える機会にあふれています。

cotreeは、心に関して一緒に考えを深めてくれるエンジニアさん、デザイナーさん、臨床心理士さん、ライターさん、編集者さん、サポートスタッフを募集しています。興味のある方は

info@cotree.jp

までご連絡をお待ちしています。

 

※追記:その後教えて頂いたのですが、自殺の統計を見ても、月曜日の自殺が多く、特に男性でその傾向が顕著だそうです。明日の仕事への憂鬱が引き金になるのかもしれません。

平成15年の1日平均自殺死亡数を死亡曜日別にみると、「月曜日」は男80.7人、女27.3人と最も多くなっており、「土曜日」は男53.5人、女21.2人と少なくなっている。 

死亡時間が確認できるものについて死亡時間別にみると、男は「0時台」「5時台~6時台」が多くなっており、女は「5時台~6時台」「10時台~12時台」が多くなっている。一方、男女ともに「1時台~2時台」「7時台~9時台」「19時台~21時台」は比較的少なくなっている。

死亡曜日・時間別にみた自殺

 

ことばに意味を与えるもの

先日、講演をさせて頂いた際の会場にペッパーくんがいました。

「ロボどっち?」という楽しげなメニューを選択すると「このあとオナラをするのはどっち?」という唐突な質問?クイズ?挑戦?をされ、今すぐにでもオナラをしそうな、機嫌が悪そうで腹巻をしたおじさんと、笑顔できれいなおねえさんのイラスト。

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まぁ普通に考えておじさんだろう、と素直に選択すると答えは

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おねえさんのほうだった。。ペッパーくんの表情も小憎らしいです。

からかわれているのか、人は見かけで判断しちゃいけないよ、おねえさんだっておならをするんだよ、というメッセージなのか。もやっとします。

人は「意外なこと」に対してあれやこれやと想像を巡らせます。

これがスマホのアプリだった場合と、ペッパーくんだった場合と、人だった場合では、多分もやもや度合いが全然違います。

スマホだったら「つまらん、意味わからん」となるのかもしれませんが、ペッパーくんだから「ちょっと深い理由があるのかも、なんか人の反応見てるのかも」となるし、生身の人間がこのなぞなぞ出してきて説明せずに立ち去ったら、「何か裏があるに違いない、自分に見えていない事実はなんだろう、この人は私に何を伝えようとしてるんだろう」とかいろいろ想像したりするんだと思います。

意図のない対話

そんな中で、最近知り合った方と、「文通」をさせて頂く機会がありました。

「文通」と言っても、便箋と封筒ではなくメールでのやりとりなのですが、これを「文通」と呼んだのは、特に目的のないことばのやりとりだったからです。

その文通は「これってこういうことなんでしょうねぇ」という雑感的なメッセージから始まったのですが、特に方向性のない言葉を投げかけられると、「この言葉には本当はどんな意図があるんだろう」とか勘ぐったりするわけです。

でも、次第にその方のことばにそれほど意図がないということに気づき、警戒が解けていきます。

評価も目的もない対話の中で、伝えることへの安心感が生まれ、普段であれば他人に伝えないであろう言葉や思いつきも、その方に「伝えても良い」と感じるようになりました。相手のことばに対して思いを巡らせ、自分の中に出てきた言葉をまた表現する。「説得しよう」「議論しよう」「良く見せよう」のどれでもないので、テーマも発散していくことができます。

そして、その発散した対話の中で、今まで自分自身が意識化していなかった思い込みや囚われのようなものが自然と浮かび上がってきて、勝手にその囚われから解放される、という思いもよらない体験をしました。そこには「解放しよう」という意図は、相手にも自分にも全くなかったのに、です。

「意図がなければならない」という病み

今思えば、証券会社でアナリストとして働いていた頃は、「結論は?」「ロジックは?」「目的は?」というのが常でした。会社の決算数値が出るなりプリントアウトして、上司のところに持って行くと即座に「株価へのインプリケーションは?」と聞かれます。その1-2分の間にできるだけ数字をインプットして、何らかの結論のようなものに辿り着いておく必要があります。投資判断は「どっちでもない」では役に立たないので「買い」なのか「売り」なのかを明確にする必要があったのです。

証券アナリストに限らず、今社会で働いている方は目的や結論を持って考えることが善とされていることが多いはずです。

こういう生活を繰り返していると、自然と「結論は?」「目的は?」という思考パターンが癖になっていきます。AなのかBなのか、と言いたくなる。癖なので、自分がそういう癖を持っていることにも気づきません。

人は「質問」には「答え」で。「主張」には「評価」で応えようとしてしまう習性があります。それが思考の幅を狭めてしまう。

でも逆に「意図がない」「決めなくていい」からこそ、可能になる思考があるのですよね。その思考が生み出すものもあります。「学び」はそこから生まれます。

文脈と意図と想像力が生み出す「意味」

ペッパーくんや文通の件を振り返って。

言葉は単体で意味を持つのではなくて、ペッパーくんが言うのか、先生が言うのか。ビルの屋上で対話するのか、森の中で対話するのか。意図を汲み取るのか、意図がない場で自由に対話するのか。置かれた文脈の中でどんな想像が働くのか、というところから意味が生まれていくということに気づきます。

その観点で、書籍や記事などの一方向の情報提供も個別化された「文脈」に欠けるため、人の想像力に働きかけることが難しいのです。単なる「情報」「言葉」で人に変化をもたらせるほどの意味を生み出せることは多くありません。

同様に人のカウンセリングとAI(人工知能)によるカウンセリングは、ことばのやりとりが全く同じであったとしても、人に与えるインパクトが全く違うはずです。ことばを受け取るときに、人が生み出す文脈とAIが生み出す文脈は異なるからです。また、人が生み出す文脈であっても、そこにどんな意図が存在するかによって意味は異なります。

cotreeのサービスは主にことばが力を持つサービスです。特にメッセージで相談するパートナー・プログラムは「カウンセラーとの文通」とも言えます。そこではことばの使い方はもちろんですが、文脈の生み出し方と意図の持ち方がとても大切になります。

文脈を受け取り、意味を生み出すのは個々の想像力です。人が良い想像力を持って、気づきを得られるような対話を生むために、インターネット上でどんな仕組みをつくっていくのか、想像を巡らせる日々です。

 

久しぶりに風邪をひいた結果

始めたばかりのブログ、一週間に一度くらいの更新を目標にしていたら、一週間は本当にあっという間に過ぎてしまいます。

というのも、この三連休は久しぶりの高熱でダウンしてしまい、ほとんど何もできずに過ぎていきました。こんなときに限って家には誰もいなくて、食べるものもアイスクリームくらいしかなく一人で熱と戦う、という三連休+1日。

たかだか風邪ごときでも、一人でひくのはとてもしんどくて、無駄にfacebookでつぶやきたくなったりして「お大事にね」「ごはん作りに行ってあげようか」と言ってもらえるだけでほっと救われるような感覚がありました。

風邪ごときは何日かたてば治るし、大したことにはならないことがわかっているわけです。けれど、うつ病とか、統合失調症とか、発達障害とか、心に関わることは、自分の体と心が思うようにならない状態がどれくらい続いていくのかわからない、それが最大の苦しみなのだと思います。

だからこそ、医療のように病気と直接向き合う「治療」の場はもちろんのこと「支える」場がとても大切なのだ、と感じます。身近な人が理解してくれることや差し伸べてくれる優しさが、ときには医療以上に力になる場があるのだなぁ、と。

例えば支える側を支援するLight Ringさんとか、同じ悩みを共有できるうつ病当事者SNSU2plusも、「理解され」「支えられる」という体験につながります。

その他にも挙げればきりがない、尊敬すべき友人たちや先生方が取り組んでいるたくさんの活動もサービスも、医療も福祉も対面のカウンセリングもオンラインカウンセリングも、すべてがそれぞれの役割を果たしながらひとつの有機的なつながりになってサポートネットワークが形成されて、必要なサービスにきちんとアクセスできる世界になったらめっちゃいい!

という「実現したい未来」のイメージがむくむくと湧いてきて、風邪ひいてよかった。まずは、cotreeが今できることを、誠実にやっていきたいと思います。失敗は反省して、未熟なところは学習して、未来に生かしていけるように、がんばります。

あれ。こんなキャラだったかな。熱でキャラ変わったかな。