精神科医療の変化

「こころの病気」と「健康」の境目

私は精神科医療の外の人間ですが、精神科医療や精神病理学で語られる「人間像」「治癒」の考え方は、「苦悩とは何か」「良く生きるとは何か」についての理解を深めるうえで大きな学びになります。人間が社会の中で誰もが経験する不適応や苦悩が高まった状態が精神的な病理であるとも言え、その病理や患者の理解はそのまま健康な人間に関する理解につながります。

つまり「こころを病んだ状態」と「健康な状態」は二分法で語られるものではなく、緩やかな連続線上に位置付けられるものです。さらに、個人のこころの健康は特定の社会的な文脈なしには語りえません。

両方の意味で「個人のこころの病気」というのは境界線が曖昧なものです。そしてこころの病気との接しかたは、社会における人間の人間に対する接しかたと、深く結びついています。

精神科医療に起こりつつある変化 

そこで現在の精神科医療の状況を知るにつけ、医師の圧倒的な権威と、患者の人間性を軽視した扱いに驚かされることがあります。資源的制約・制度的限界・歴史的経緯上、結果としてそうなっているのであって、誰を責められるものでもありません。ですが、外部だけではなく、内部からもそうした精神科医療のあり方に疑問の声は高まっており、精神科医療のかたちは今、大きな変化の時期にあるように見えます。 

単に症状を安定させるのではなく、その人らしく希望を持って生きることを支援するリカバリー志向。医師側だけではなく患者側からの価値観の共有を行い、協働して治療方針を決めていく共同意思決定。治療者チームと当事者の開かれた対話によって「結果として」治癒が起こるオープン・ダイアローグ。

今広がりつつある、このような考え方は、患者を未来に向かって可能性の開かれた、関係性の中のひとりの主体として捉え直す試みです。病気を治すという観点を超えた、ひとりの人間がより良く生きるための医療という新たなかたちへの変化です。新しい方法にはまだまだリスクや不確実性もあるのでしょうが、この方向にひとのこころの治療が変わっていってほしい、と心から思います。

これは、こころの治療の変化でもありながら、社会における人と人との関わりかたの変化なのだと思います。個人の苦悩や弱さを権威によって排除すべきものと捉えるのではなく、人間の当たり前の一部として、周りを取り囲むひとたちとの対話と相互作用の中に融解させていくような。そんな社会の変化を、精神科医療は縮図として体験しつつあるように見えます。

変化に必要なこと

様々な新しい概念や取り組みの萌芽を外の立場から垣間見るにつけ、未来に対して希望が生まれる一方で、現場レベルの変化はすぐについてくるわけではないことにも気づきます。新しい概念の登場で業界が変わるように見えてから、実際に誰にもわかる変化が起こるまでには、長い時間がかかるのでしょう。

守るべきものがある人にとっては、新しいものは脅威になることがあります。そういったひとたちにも変化する理由を提供できるようになるには、様々な切り口での実績の積み重ねが必要です。

一部の勇気ある人たちが恐る恐る小さな変化を起こし、成功体験を積み重ねて、その輪が広がっていく。そのためには何度も失敗があって、批判を受けながら、無視されながら、それでも強い信念を持った人が周囲を巻き込んで活動を続けていく中で、少しずつ雰囲気が変わっていく。

社会を変えるというのは簡単じゃないけれど、傷つくことを恐れずに社会を変えようとする人の存在が必要なのだと思います。

それぞれの果たすべき役割

大きな変化を起こしたい!と考える人は多いのかもしれません。けれど実際に変化を起こし始められる人は一握りだし、それをうまくやれる人はさらに限られます。でも自分で変化を先導しなくても、ついていく人にも果たせる役割があるし、応援する人の存在も必要です。

それから「社会を変えるもの」の主体にはならないとしても、「あいだを埋めるもの」「あいだをつなぐもの」として機能することにも価値がある。

大きな変化が起こるときに、果たすことができる役割は人それぞれ異なります。

わたしたちは、他者との言葉のやりとりと安心できる関係性は、何よりも人を癒すことができると信じています。信じられる変化の方向性に向かって、少しでも力を添えられる存在でいられるように、自分たちは何を信じているのか、何ができるのかを明確にしながら、プライドを持ってやっていかなければ、と思っています。

 

心の世界は難解なので、入り口が必要だと思う

15年前、心理学を志した大学で出会った臨床心理学・心理療法の世界はあまりにも私にとって未知の世界でした。特にフロイトユングの世界はぶっとんでいるように思え、全く理解できず、結局普通に…というか普通以上に心理の世界とかけはなれた、なんなら対極にあるんじゃないかとも思える、証券業界に就職することになりました。

こういうのを、心理学的には反動形成というのでしょうか。

※反動形成:抑圧されて無意識になっている欲求が,意識や行動に現れないよう,それと正反対の意識・行動に置き換えられる機制をいう。防衛機制の一種で,たとえば,攻撃性が抑圧されている場合には極端に親切になったりする(出所:ブリタニカ国際大百科事典)。

 

ある一定の特性を持った人にとっては、心の治療や、無意識の世界、言葉が紡ぐ意味の世界というのは、直感的に入ってきづらいのだろうなぁ、と思いますし、私はそういうのがタイプだと自覚しています。

もともとそういうタイプかどうかは別としても、普通にビジネスの世界の感覚に染まった人にとって、「心」とか「価値」とか「世界観」みたいな捉えどころのない概念はあまり日常的に縁がないことが多いのではないでしょうか。

 

ビジネスのプレゼン資料で記載しなければならないのは「価値観」ではなく「金額」ですし、目指すものは「自分にとっての意味」でなく「社会的価値」です。

それが正当化される社会にいるからこそ、「心」とか「無意識」とか摑みどころのない主観的な世界を軽視していても「客観的には成功した」生活を送ることも十分に可能になります。むしろ、そうでないと生活が立ち行かないことも多いのです。

 

心の世界の奥深さと難しさ

最近は、オンラインカウンセリングサービスを運営する中でたくさんの心理療法家にお会いすることがあります。お話を伺っていると、そこで起こっていることや語られることは本当に奥深くて、人の人生をより人間らしく、豊かにしてくれるものだと感じます。

一方で、極めて摑みどころがなくて、こんな感じでビジネス向けのプレゼンにしたら一瞬で上司に激怒されて突き返されるだろうなぁ…とか想像してしまうわけです。

その中では、認知行動療法はかなりプラグマティックで社会的価値観に沿った内容なので、上司のレビューにも合格するのかな、という印象。だからこそ、保険点数化され、医療の枠組みの中に入って、社会的に受け容れられてきたのだと思います。

さらに、利便性や実利を重視するオンラインカウンセリングサービスは認知行動療法と相性がいいので、cotreeでは主に認知行動療法的アプローチをすすめています。

最近は、オンラインカウンセリングも認知行動療法も、「実利」というみんなが理解できる入り口を提供することで、「心」と向き合うきっかけを提供するものである、と考えるようになりました。

認知行動療法をきっかけにして、自己理解を深め、より深い場所への入り口に立つ。

オンラインカウンセリングをきっかけに、最初の援助希求をし、そこからより適切な場所を探し出す。

それから、なかなか一般的には伝わりづらい奥ぶか〜い世界の中にいる人たちの言葉を「そういうのがわからないタイプの人」の言葉で翻訳してその価値を伝えていく、ということも、私たちにできることなのかなぁ、と考えたりしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

健康の実践に関しては「学者<生活者」である。

この2年くらい、オンラインカウンセリングというメンタルヘルスケアサービスを実践しながら関連分野の勉強をしてみて思ったことがあります。

「健康」「心」「生きること」に関しては、学者よりも生活者のほうが「知っている」のだなぁ、と。

 

学問は、言語を介すほかに成立しえない。でも、健康や心や生きることは、言語化できないことの重要さがあまりにも大きいのです。その場合、言語化した瞬間に、失われる知や感覚があるのだと思います。

 

わたしたちは、「この栄養素をとると良いらしい」「こんな運動をするといいらしい」という研究結果に影響を受けてしまうことが多いのですが、多くの研究は、とても複雑な要素で構成される生活場面をシンプルな構造につくりかえて、擬似的に結論を導いています。

その研究結果で得られた小さな有意差をさらに「Aは良い、Bは悪い」という白黒に単純化して伝えられるのがメディアだったりもするのです。

その単純化されたモデルのうしろがわに、本当に重要なことが隠れていることは、特に健康の分野では多いのではないでしょうか。

 

どんなに太る原因を調べて、良い栄養素をとって、ダイエットをしようとしても痩せなかった人が、ポケモンGoで歩いているうちに痩せたりする。そういう、「学問の中では定義されていない因子」が、健康や心の世界では、大きな役割を果たすのではないかと思うのです。

 

だからといって学問の知を無視せよと主張しようとしているわけではありません。

自分が、あるいは自分の身体や心が、本当は知っていることを、もう少し信じて、意識を向けてあげることから、わかることがあるのではないか。

 

そう思って、最近は瞑想を始めてみました。

自分の感覚の解像度を上げていくのは、心地よいことです。

それでもダイエットはなかなか続かないけど。

ポケモンは、レベル21になりました。

 

 

 

 

 

 

台風だったので仕方なく

台風だったので、本日cotreeは自宅勤務といたしました。

 

打ち合わせの予定はskypeに変更して、一日中屋内で仕事をしました。

いつになく集中できて、いつも打ち合わせのための移動にどれだけ気力と体力を使ってたか、というのがとてもよくわかりました。特に夏場は。

ちょっとした打ち合わせはskypeで十分仕事になることも多いんですよね。

そのほうが、必要な時間も短くてすみます。

お互い、疲れないし。

 

さすがに、こちらから営業に出かけるときには、そうもいかないのですが。

そして、営業に来て頂くときには、「まぁじゃぁ当社オフィスにお越しください」ってなってしまうのですが。

 

でも、仕方ないからやってみたら、意外といけるね、という感じになります。

カウンセリングも、skypeは嫌だと思っていたけど、利用者さんが出張だから仕方なくやってみたら、意外とskypeでもできることってたくさんあるね、と言うカウンセラーさんも多くおられます。

カウンセリングを受けたい方々の中には、出かけることへの抵抗感が大きい方がとてもたくさんいらっしゃるので「仕方ないからやってみる」の意義は大きいのです。

 

仕方なくやってみたところから、意外といけるから、仕方なくないけど、こっちのほうが便利だからやってみよう、になっていく人が増えていくと、少しずつ常識も変わっていくのでしょう。

 

 

 

欠けていること

「あなたは病気だよ」

と言われることは、自己理解の促進にもつながるけれど、

「あなたは、普通と比べて欠けていることがあるんだよ」

という自分で操作しようのない客観的事実のようなものを他者によって宣言されることでもあります。

 

その宣言は、それまでの自分の生きづらさや苦しみに理由を与えてくれます。

この苦しみは自分のせいではなく病気のせいである。という考えは、自分の個性と限界を受け止めて前に進む助けになることもあります。体系的な知の中から、対処の仕方のヒントも見つかるかもしれません。

 

でも、「自分は病人である」という居場所を与えることは、ある種の諦めをも生み出してしまうこともある。自分の苦しみは病気のせいだからどうしようもないのだ、と。

自分の「病気」の部分を明確に定義することは難しいので、いつしか「自分は病気を持っている」という認識は「病人である自分」という自己像に変わっていく。

病気と自分を切り離せなくなってしまうリスクを孕んでいます。

それは、その人から自律性を奪い取ってしまう。

生きる主体を、自分から病気に変えてしまうことがあるのかもしれません。

 

多かれ少なかれ、人は役割を演じようとしてしまうものです。

母親は、母親らしく。

男の子は、男の子らしく。

病人は、病人らしく。

障害者は、障害者らしく。

その「らしく振舞わねば」が奪い取っている可能性に、敏感にならなければいけない。

 

諦めないことで人生において得られるものは本当に大きい。

そして自己像の持ち方は「どこで諦めるか」に本当に大きな影響をもちます。

だから、安易に病名を与えるべきではない、と心から思います。

自分にも、もちろん他人にも。

 

書くことの難しさ

気づけば、3ヶ月ブログを書いていませんでした。

 

考えれば考えるほど、書くことは難しい。

 

最近は、ときどき文章を書く機会を頂くことがあります。

ある原稿で、誰に何を伝えたいのかとじっくり考え、一気に書き上げた文章は、自分自身はそれなりに満足のいくものでした。もう少し良くしよう、と入稿前に人に見て頂くと、「ここはこうするのがいいのでは」というご意見を頂き、どれもそのとおりだと感じ、校正し直す。

そんなことを繰り返していると、次第に「わたしは何を伝えたいのか」という原点が見えなくなり、面白みがなくなってくる、という経験をしました。

 

この人はこう感じたのだ。だからこう伝え方を変えなければ。

この人はこんなことは求めていない。だからこれは削らなければ。

 

こんなことをやっていると、エンドレスで、どんどん文章の芯がなくなって、書いていることにも確信が持てなくなっていくのですね。

 

それにニーズがあろうと、なかろうと、優れていようと、イマイチだろうと、等身大で表現するということのほうがよっぽど面白みがあるのだ、と痛感することになりました。

 

「ブログが書けない」現象も同じことです。

これを書いて何になるのか。

意味があるんだろうか。

無知だと思われるのでは。

 

みたいなつまらないことを考えるのはやめよう、と

今回の執筆作業にだいぶ苦しんだあとにようやく、諦められました。

誰に何を伝えたいかを決めたあとは、自分の価値観を信じて、自分のやり方で、書く。

それ以上もそれ以下もできないのだ、と、原点回帰です。

  

営業とカウンセリングの共通点

資金調達とかをすぐに考えているわけではないのですが、うちみたいな会社にも金融機関の方が営業やヒアリングに来てくださったりします。

最近は若くてかわいらしい女性の営業さんが多くて、普段黙々と仕事をしている分そういう方が来ると、同じオフィスで働いている仲間のテンションが謎に上がったりします。私自身も以前金融にいたこともあり、そんな営業さんが来るとなんとなく妹を見ているような(いないけど 営業もしたことないけど)気持ちになってつい普段しない雑談がしたくなったり、老婆心が生まれたりするのです。

ちょっとお菓子を出したくなったりとか、いつもより多めにしゃべったりとか、いつもより多めに聴いたりとか、ちょっとしたことなんですが。

そんな営業さんに、ひととおり事業についてお話をしたあと、お菓子を食べながらカウンセリングについていろいろと話していて、私たちがカウンセラーとしっかり面談をしてから登録して頂いている、という話になったとき、

良いカウンセラーってどんなカウンセラーなんですか?

と言われたので

カウンセリングは相手がある仕事だから、単純に良いと悪いに分かれるわけではないよ。営業と同じように、いい商品を売ってても相手がそれを必要としてないこともあるし、人間としての相性もあるし、お客さんの抱えている課題をどれくらい理解できるかとか、お客さんの特性や状態に依存するところも大きい。

 

誰にでも何でも売れる営業がなかなかいないように、誰にでも「良い」カウンセラーはめったにいなくて、万能なカウンセラーを探すのは難しい。でも、カウンセリングを必要としている人はたくさんいるわけだから、万能なカウンセラーばっかり探していては必要な人に十分には届かない。

 

だからこそ、ちゃんと得意分野をマッチングすることが大事だと思っている。『この製品であればちゃんと売れる』『こういう人にであればちゃんと売れる』というカウンセラーを、『この製品を求めているこういうお客さん』とマッチングするのが、cotreeの役割のひとつだと思っている。

 

ただ、営業にも共通すると思うけど『ちゃんと相手のことを思える人かどうか、相手の立場で考えられる人かどうか、愛せる人かどうか』というのは根本的に重要な要素だと思うから、ここは得意分野と言える経験と実績があって、ちゃんと人を愛せるカウンセラーを採用するようにしているよ。

 と答えて、これはちゃんと知ってもらいたいことだなぁ、と思ったので久しぶりにブログを更新しました。

かわいい子が大好きな人は、かわいい営業さんが来たらテンションが上がるし、几帳面な人は、几帳面な営業さんが安心だろうし、同じような経験をしたことがある営業さんには共感して感情移入できるし、人の心に触れる仕事である以上、そういった「人間」としての要素と、営業やカウンセラーの「良さ」を切り離すことはできません。

オンラインカウンセリングだからこそ、そんな個性のマッチングが、幅広い選択肢から可能になるという点は、とても誇りを持っています。

 

ブログはさぼっていますが、cotreeはがんばっています。

cotreeでは、相手のことを思える営業さんも募集中です!(営業に来てという意味ではなく、一緒に働きましょうという意味で!)

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※写真はいつだったかアンパンマンミュージアムにひとりで行ったときの写真です。ペコちゃんがアンパンマンにおいしそうな目線を向けている感ところが気に入っています。