欠けていること

「あなたは病気だよ」

と言われることは、自己理解の促進にもつながるけれど、

「あなたは、普通と比べて欠けていることがあるんだよ」

という自分で操作しようのない客観的事実のようなものを他者によって宣言されることでもあります。

 

その宣言は、それまでの自分の生きづらさや苦しみに理由を与えてくれます。

この苦しみは自分のせいではなく病気のせいである。という考えは、自分の個性と限界を受け止めて前に進む助けになることもあります。体系的な知の中から、対処の仕方のヒントも見つかるかもしれません。

 

でも、「自分は病人である」という居場所を与えることは、ある種の諦めをも生み出してしまうこともある。自分の苦しみは病気のせいだからどうしようもないのだ、と。

自分の「病気」の部分を明確に定義することは難しいので、いつしか「自分は病気を持っている」という認識は「病人である自分」という自己像に変わっていく。

病気と自分を切り離せなくなってしまうリスクを孕んでいます。

それは、その人から自律性を奪い取ってしまう。

生きる主体を、自分から病気に変えてしまうことがあるのかもしれません。

 

多かれ少なかれ、人は役割を演じようとしてしまうものです。

母親は、母親らしく。

男の子は、男の子らしく。

病人は、病人らしく。

障害者は、障害者らしく。

その「らしく振舞わねば」が奪い取っている可能性に、敏感にならなければいけない。

 

諦めないことで人生において得られるものは本当に大きい。

そして自己像の持ち方は「どこで諦めるか」に本当に大きな影響をもちます。

だから、安易に病名を与えるべきではない、と心から思います。

自分にも、もちろん他人にも。