「わからない」でいることの価値

最近、twitterを再開しました。

今までも私的に運用してきたのですが、会社について、考え方について発信する場として、今回はちゃんと運用していこう、と思い、ときどきつぶやいています。 

先日、こんなことをつぶやきました。

このつぶやきの背景にあったのは、こんなデータです。日本学生支援機構のレポートより。

前回調査も含めた過去の調査において、学生相談に関する今後の課題として常に最上位に挙げられている問題は「悩みを抱えていながら相談に来ない学生への対応」であった。多くの学校の教職員や学生相談組織のカウンセラーが、支援の必要があるにも拘らず相談につながらない学生への対応のあり方を模索している様子を示す結果である。 

出所:大学教育の継続的変動と学生支援

ではなぜ、学生は相談に来ないのか。これは学生相談に限らずカウンセリングにも言えることだと思うのですが、忙しいとか恥ずかしいとか、そういうことの前に「わからない」ということが根本的な要因になっているように思います。

何をやるのか、なぜやるのか、相手はどんな人なのか、どんな場所でやるのか、いつやるのか、どうやるのか、どうなるのか。なんなら5W1H全部のイメージがわかないこともあるほどです。

だから、忙しければ行かないし、恥ずかしくても行かない。

別に忙しくなくても、恥ずかしくなくても、「わからない」問題を解決しないと行く理由がわからないので相談には行かないのではないか、と思うのです。

学生やクライエントに来てほしいと思えば、もっとわかりやすくする努力が必要なのではないか、と考えています。

その意味では、なんで臨床心理士のカウンセリングってわかりづらいのかなぁ、と思っていたのですが、過去の友人のツイートを振り返っていたら、こんなつぶやきを見つけました。

わかったような、わからないような。

ここで「わかった」と言ってしまうと負けな気がする(何に)ので、「わからないもの」に向き合ってみます。

「わからない」でいることの価値って何だろうな、と。

現代では社会的に「わかる」ことが推奨されます。わらかないよりわかるほうがいい。理解する、答えを出す、決める、勝つ、判断する。「わかる」ことは「わける」ことだと言われますが、わかって「わける」ことでビジネスは前に進んでいくところがあります。

やることを決める。やらないことを決める。どうやるか決める。誰とやるか決める。

世の中には意思決定や思考法の本が溢れ、わかるようになるために、ビジネスマンは日々意思決定の材料を集めたり、思考をプログラミングしたりしています。

そのほうが早く進めるし、遠くまで進める。ビジネスの世界にいると、そこに疑いの余地はないように思います。「経営者の役割は決断すること」というくらいに、その重要度は高い。

そのような価値観の中にいると「わからない」でいることの価値、と言われてもあまりピンと来ません。

わからないと、どんないいことがあるのか。

このことを、神田橋條治先生は著書「精神科診断面接のコツ」の中でこんな風におっしゃっていました。

この世に実在するものはすべて、輪郭のあいまいなものである。輪郭のはっきりしたものはすべて、実在しない抽象の産物なのである。実在するものは、隣との間いくらかの「ぼかし」で連なっている。明確な境界は仮象のものである。
輪郭を明確にするのは動きを止めるのに役立ち、輪郭を取っ払うのは動きを引き起こすのに役立つ。これはあらゆる心理的操作の基本である。

そもそもすべてのものは曖昧である、ということですね。輪郭は存在するものではなく、つくったり、取っ払ったりするものです。

不安定なものを安定させるためには、輪郭をつくることが役に立つことがある。

逆に、その輪郭により苦しさが生まれている場合には、取っ払うことで新しい解釈や可能性に開かれる。そんなことが、心理療法では行われているようです。

診断を保留することは、一つの疑問を、いやしばしば数個の疑問を蓄えることである。そして、通常、知的に豊かであるというのは、知識を蓄えていることではなく、疑問を蓄えていることなのである。

あわてて診断を決定してしまうことで、つかの間の心のやすらぎを得る行動の中に逃避し、疑問が解決したかのように思いこむのは、貧しさへの道であるかもしれないのである。

なぜなら、豊かな可能性をひめているかもしれない疑問を見据えることなく、とりにがしてしまうからである。

葛藤をそのままで持ち続けることが、精神にとって決定的な豊かさをもたらす。

「疑問を持っている状態」というのは「知ったつもりになっている状態」よりもずっと可能性に開かれています。問い続けることができるからです。自分が思い込んでいること、わかっていると思っていることの輪郭を取り払い、問い続けることで、新しい世界が見えてくることがある。

新しい世界は「見たことのなかった深み」かもしれないし「広がり」かもしれない。

私的な世界の中でそういう豊かな世界を持ち続けられないことと、精神的な貧困、生き方の貧困とはつながっているのかもしれません。

だから、拙速に「わかった」と割り切るのではなく、疑問や揺らぎを持ち続けることは、より豊かさや広がりを持って生きて行くうえで重要なことなのでしょう。

しかし、「わからなさ」「ゆらぎ」を持ち続けることに対して、現代の社会は「非効率」「無能」というレッテルを貼りにきます。社会に迎合して「わからなさ」「ゆらぎ」を捨てるようなことができず、社会に否定されながら生きていると感じる人にとっては、本当に生きづらい社会なのではないでしょうか。

その豊かさに確信を取り戻すためにも、今の時代だからこそ、臨床心理学のような「葛藤を持ち続ける」という知が必要になるのではないかと感じます。

臨床心理学のマーケティングと「わからなさ」

冒頭の「サービス提供者は「わからない」を減らす努力が必要だと思う。」というつぶやきに戻ります。

臨床心理学が「わからない」ことの価値を大切にしているから、と言っていいのかわかりませんが、臨床心理学の世界の先生方はけっこうマーケティングが苦手だし、好きでもない、という感触があります。ダイレクトなマーケティングメッセージ、つまり「ここに来るとこんなことができるよ、こんな風になれるよ」という自己啓発では言いそうな「わかりやすい言葉」をあまり使いません(臨床心理学もいろいろ流派があるので、一概には言えないですし、医療や教育などの制度の中では、全く違うロジックが働くのですが)。

それが日本の市場において臨床心理学的なカウンセリングが広がっていきづらいことの一つの要因だと思います。でも、それはそういう価値が臨床心理学において大切にされているということであり、誠実さでもあると感じます。

生きづらい人たちに臨床心理学を届けるために、もう少しその価値を一般に伝えていくためにやりようがあるのではないかな、と思うことがあるのですが、それを「中の人」がやっていくことは難しいのかもしれないとも感じます。

実際にクライエントと対面し、その価値の中にクライエントを巻き込む立場にある人たちが、クライエントに対して誠実であろうとするなら、彼ら自身の「あり方」を妥協することはできないと思うからです。自分の「あり方」と異なるマーケティング的な言語を使いこなすことは、とても困難な課題です。

葛藤の価値を大切にしながらビジネスをするということ

そんなことを考えながら生きているぐらいなので、当然のごとくわたし自身も葛藤を抱えがちで、経営をしながらメンバーに迷惑をかけてしまっていることも多くあります。私自身の「あり方」はどうしていけばいいんだろう、と悩んだりもします。

先日神田橋先生の言葉を引用しつつ「でも葛藤の価値みたいなことを考えながら、ちゃんと意思決定するのって大変じゃんね」とメンバーに弱音をこぼしたところ、すかさず

「神田橋先生の言葉はその通りですよね。でもそんなこと言っていたらビジネスは進んでいかないですから。ハレとケですよ。ハレはあったらいいですよ。でも日常は日常です」と即答。的確すぎる。

cotreeの企業理念は「人の体験する世界が、深まり、広がっていくことに貢献する」ことです。葛藤と向き合うことは、自分の世界を深めて行くことにつながる。誰かに助けを求めることは、自分の世界を広げていくことにつながる。そういう場を増やすことを、会社のミッションとしています。

「わからない」を大切にし、葛藤と向き合うことができる人や場を増やして行くというハレの価値の世界を目指しながらも、日々「ケ」の世界で、粛々と決めながら、わかった、ちがったと言いながら前に進むというのが我々のビジネスの日常であって、そこが臨床家のあり方とは違うところでもあり、ビジネスをやっている私たちだからこそできることなのではないか、と感じています。

わからないけど。

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