摂食障害の原因は母親にあるのか
「からだのシューレ」
文化人類学者の磯野真穂先生の「からだのシューレ」に参加してきました。
「シューレ」とはドイツ語で「学校」、古代ギリシャ語で「精神を自由に使う」という意味だそうです。ゆるめの小鳥の絵がかわいい。
摂食障害の原因は母娘の関係性にある、という言説を耳にすることがあります。実際に摂食障害の当事者からも「うちは機能不全家族だったから」といった語りが聴かれることは多いようです。
「それって本当?」と問いかけることから始まります。
摂食障害の原因はどこにあるのか
拒食症は14~16世紀のヨーロッパでは「聖なるもの」として認知されていました。それが、生物学・心理学の普及とともに「生物的な異常」「発達的な異常」「母子関係の不全」に変化し、日本では母親の関わり方に原因があるとする「母原病」として語られるようになりました。
また、日本では「子供の問題行動の原因は小さい頃に母親が一緒にいなかったことにある」という3歳児神話も、厚労省が「無根拠」と発表しているにもかかわらずまことしやかに語り継がれています。
一方、このように語り継がれるのは日本特有の現象で、シンガポールでは摂食障害が母子関係に還元されることはありません。摂食障害の問題はむしろ西洋文化やメディアからの影響の強さとして捉えられ、「母親に原因がある」といった語りはほとんど見られないのです。
この違いを生むのは何か、と考えると、「父親が働き、母親が家で家事をする」という日本特有の経済発展のあり方、文化的背景、政治的な現実が介在していることがわかります。「摂食障害が母原病である」という物語はあくまで文化固有のものののようです。
文化的な物語に自分を押し込める当事者
それにも関わらず、臨床の現場では、摂食障害の当事者は文化のつくりだした「母原病」という物語を自分の物語として語るようになります。誰かに与えられた「自分が摂食障害になったのは、母の愛が足りなかったからだ。」という物語の中に自分を入れ込み、一般的な言説のコピーのような語りが生まれてきます。
そして「物語るために病気を必要としてしまう」というジレンマに陥り、出口のないループに入ってしまう、ということが起こっているようです。その与えられた物語自体が、真実かどうかを疑うこともないままに。
ワークショップの最後に
今を語ることは過去と未来を語ること。
過去を語ることは今と未来を語ること。
未来を語ることは今と過去を語ること。
わたしたちは常に未来への道筋を持って生きていて、それぞれの物語を持っている。病気になると、今までの物語が崩れて、過去と未来を結び直す新たな物語を紡ぐことが必要になる。
その人にとって生きる意味のある物語になるよう、人がつくった物語に乗るのではなく、自分の人生を自分の言葉で語る勇気を持ってほしい。
こんなメッセージを頂きました。
生き方がうまくいかないとき、わたしたちは過去の「原因」を探そうとします。母親に愛されなかったから。自分の能力が足りなかったから。あのときの選択が間違っていたから。そうすることで今の苦しみに理由を与えることはできます。
しかし、その過去の物語は誰かによって与えられた物語かもしれないこと、そしてそれは現在と未来をも語る力を持つということに自覚的でなければいけません。与えられた物語に自分の人生を支配されるのは本当にもったいないことです。
未来語りのダイアローグ
だとしたら物語を語り直すやり方には例えばどんなものがあるんだろう、と考えていて、ふと最近関心が高まっている「未来語りのダイアローグ (anticipation dialogue)」を思い出しました。
未来における望ましい状態ついて想起することで、それにたどりつくための今を紡ぎ出す。これが対話的に行われることで、現在の苦しみに対する多声的な理解が生まれます。また、未来が共有されることで対話者同士の関係性が再構築されていきます。
未来から逆算していくのはコーチングとも共通していますし、ブリーフセラピーなど解決志向・未来志向のカウンセリングでも行われていることです。「未来語りのダイアローグ」の場合には、これが対話的に行われる、ということに意味があります。
物語自体を自分で生み出すのではなく、他者から受け取るのでもなく、対話的に紡ぎ出していく。また、未来を起点にしているという点でも、摂食障害の方々が「与えられた過去の物語に囚われて動けなくなる」ということと対照的です。
「誰とともに、いかに語るか」によって、物語はいかようにも変化しえるのでしょう。
ちょうど、摂食障害を経て現在はプラスサイズモデルとして活躍するNaoさんの「物語」が昨日公開されていました。
率直な言葉に、本当に心を動かされます。
とても苦しんだからこそ、Naoさんは本当に優しくて、輝いています。
ぜひ、たくさんの方に読んでほしい記事です。
今自分が生きている物語は絶対的な真実ではなく、単に社会によって与えられたものや、自分が決めつけているだけなのかもしれないこと。そしてここから、様々な自分の物語の紡ぎ直し方があるということだけでも、どこか救われる思いがしないでしょうか。
苦しいときに、自分の物語を見つめ直し、語り直すことの意義は、そんなところにあるのだと感じます。
文化人類学から見た「心の病気」のあり方は、そんな視点を与えてくれました。