欠けていること

「あなたは病気だよ」

と言われることは、自己理解の促進にもつながるけれど、

「あなたは、普通と比べて欠けていることがあるんだよ」

という自分で操作しようのない客観的事実のようなものを他者によって宣言されることでもあります。

 

その宣言は、それまでの自分の生きづらさや苦しみに理由を与えてくれます。

この苦しみは自分のせいではなく病気のせいである。という考えは、自分の個性と限界を受け止めて前に進む助けになることもあります。体系的な知の中から、対処の仕方のヒントも見つかるかもしれません。

 

でも、「自分は病人である」という居場所を与えることは、ある種の諦めをも生み出してしまうこともある。自分の苦しみは病気のせいだからどうしようもないのだ、と。

自分の「病気」の部分を明確に定義することは難しいので、いつしか「自分は病気を持っている」という認識は「病人である自分」という自己像に変わっていく。

病気と自分を切り離せなくなってしまうリスクを孕んでいます。

それは、その人から自律性を奪い取ってしまう。

生きる主体を、自分から病気に変えてしまうことがあるのかもしれません。

 

多かれ少なかれ、人は役割を演じようとしてしまうものです。

母親は、母親らしく。

男の子は、男の子らしく。

病人は、病人らしく。

障害者は、障害者らしく。

その「らしく振舞わねば」が奪い取っている可能性に、敏感にならなければいけない。

 

諦めないことで人生において得られるものは本当に大きい。

そして自己像の持ち方は「どこで諦めるか」に本当に大きな影響をもちます。

だから、安易に病名を与えるべきではない、と心から思います。

自分にも、もちろん他人にも。

 

書くことの難しさ

気づけば、3ヶ月ブログを書いていませんでした。

 

考えれば考えるほど、書くことは難しい。

 

最近は、ときどき文章を書く機会を頂くことがあります。

ある原稿で、誰に何を伝えたいのかとじっくり考え、一気に書き上げた文章は、自分自身はそれなりに満足のいくものでした。もう少し良くしよう、と入稿前に人に見て頂くと、「ここはこうするのがいいのでは」というご意見を頂き、どれもそのとおりだと感じ、校正し直す。

そんなことを繰り返していると、次第に「わたしは何を伝えたいのか」という原点が見えなくなり、面白みがなくなってくる、という経験をしました。

 

この人はこう感じたのだ。だからこう伝え方を変えなければ。

この人はこんなことは求めていない。だからこれは削らなければ。

 

こんなことをやっていると、エンドレスで、どんどん文章の芯がなくなって、書いていることにも確信が持てなくなっていくのですね。

 

それにニーズがあろうと、なかろうと、優れていようと、イマイチだろうと、等身大で表現するということのほうがよっぽど面白みがあるのだ、と痛感することになりました。

 

「ブログが書けない」現象も同じことです。

これを書いて何になるのか。

意味があるんだろうか。

無知だと思われるのでは。

 

みたいなつまらないことを考えるのはやめよう、と

今回の執筆作業にだいぶ苦しんだあとにようやく、諦められました。

誰に何を伝えたいかを決めたあとは、自分の価値観を信じて、自分のやり方で、書く。

それ以上もそれ以下もできないのだ、と、原点回帰です。

  

営業とカウンセリングの共通点

資金調達とかをすぐに考えているわけではないのですが、うちみたいな会社にも金融機関の方が営業やヒアリングに来てくださったりします。

最近は若くてかわいらしい女性の営業さんが多くて、普段黙々と仕事をしている分そういう方が来ると、同じオフィスで働いている仲間のテンションが謎に上がったりします。私自身も以前金融にいたこともあり、そんな営業さんが来るとなんとなく妹を見ているような(いないけど 営業もしたことないけど)気持ちになってつい普段しない雑談がしたくなったり、老婆心が生まれたりするのです。

ちょっとお菓子を出したくなったりとか、いつもより多めにしゃべったりとか、いつもより多めに聴いたりとか、ちょっとしたことなんですが。

そんな営業さんに、ひととおり事業についてお話をしたあと、お菓子を食べながらカウンセリングについていろいろと話していて、私たちがカウンセラーとしっかり面談をしてから登録して頂いている、という話になったとき、

良いカウンセラーってどんなカウンセラーなんですか?

と言われたので

カウンセリングは相手がある仕事だから、単純に良いと悪いに分かれるわけではないよ。営業と同じように、いい商品を売ってても相手がそれを必要としてないこともあるし、人間としての相性もあるし、お客さんの抱えている課題をどれくらい理解できるかとか、お客さんの特性や状態に依存するところも大きい。

 

誰にでも何でも売れる営業がなかなかいないように、誰にでも「良い」カウンセラーはめったにいなくて、万能なカウンセラーを探すのは難しい。でも、カウンセリングを必要としている人はたくさんいるわけだから、万能なカウンセラーばっかり探していては必要な人に十分には届かない。

 

だからこそ、ちゃんと得意分野をマッチングすることが大事だと思っている。『この製品であればちゃんと売れる』『こういう人にであればちゃんと売れる』というカウンセラーを、『この製品を求めているこういうお客さん』とマッチングするのが、cotreeの役割のひとつだと思っている。

 

ただ、営業にも共通すると思うけど『ちゃんと相手のことを思える人かどうか、相手の立場で考えられる人かどうか、愛せる人かどうか』というのは根本的に重要な要素だと思うから、ここは得意分野と言える経験と実績があって、ちゃんと人を愛せるカウンセラーを採用するようにしているよ。

 と答えて、これはちゃんと知ってもらいたいことだなぁ、と思ったので久しぶりにブログを更新しました。

かわいい子が大好きな人は、かわいい営業さんが来たらテンションが上がるし、几帳面な人は、几帳面な営業さんが安心だろうし、同じような経験をしたことがある営業さんには共感して感情移入できるし、人の心に触れる仕事である以上、そういった「人間」としての要素と、営業やカウンセラーの「良さ」を切り離すことはできません。

オンラインカウンセリングだからこそ、そんな個性のマッチングが、幅広い選択肢から可能になるという点は、とても誇りを持っています。

 

ブログはさぼっていますが、cotreeはがんばっています。

cotreeでは、相手のことを思える営業さんも募集中です!(営業に来てという意味ではなく、一緒に働きましょうという意味で!)

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※写真はいつだったかアンパンマンミュージアムにひとりで行ったときの写真です。ペコちゃんがアンパンマンにおいしそうな目線を向けている感ところが気に入っています。

より良く生きるためのカウンセリングと幸福タイプ診断

「カウンセリング」と「病気」の関係

カウンセリングって病気の人が受けるイメージがある。

と言われることが多いのですが、カウンセリングと病気は本来関係ありません。

カウンセリングと病気の関係をものすごく単純化すると、こういう感じなのではないかと。

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つまり

・カウンセリングは、より主観的に幸せを感じられるような変化を目指す。(「幸せ」の定義はいろいろあると思いますが、ここでは単純化・抽象化して「より良く生きる」というイメージで。)

・病気かどうかと、幸せかどうかは本質的には別の軸である。

・でも、メンタルの病気では、「感情」「思考」「行動」という日常生活の幸福感につながる要素と密接に結びついているために、「病気かどうか(健康度)」と「幸せかどうか(幸福度)」は連動しやすい。

・メンタルの病気での健康度と幸福度の関係性については、「病気になる→幸せを感じられなくなる」という順序もあるけれど、「幸せを感じられなくなる(生きづらい)→病気になる」という順序もあるため、「病気が治る→幸せになる」わけではなくて、病気が治ってももともと持っていた生きづらさが残ることもある。

・だから、メンタルの病気になると、医療とカウンセリングが両方必要なときも多い。医療の中にカウンセリングが含まれることもあります。その印象が強くて、カウンセリングは病気の人が受けるもの、という認識を持たれがち。

というのが、病気とカウンセリングの関係性のわかりづらさかな、と思います。

 よりよく生きるためのカウンセリング

本来、カウンセリングは、「病気を治す」ためではなく「より良く生きる」ことを目的としていることが多いものです。(もちろん「より良く生きる」ために健康度の回復が必要なときには、思考や行動・生活習慣の変容をテーマとして扱うことで、健康度が回復することもあります。)

「より良く生きる」ための道のりを一人で歩いていると、同じところを行ったり来たりしてしまったり、つまづいてしまったりすることがあります。そのときに、専門家との対話を通じて、見えていなかったことを見えるようになり、成長すること。成長することで、新しい思考や行動の選択肢が増えることが、カウンセリングが果たす役割と言えます。

カウンセリングを受けることは、健康か病気かにかかわらず、より良く生きるために自身の課題と前向きに、主体的に向き合うための、ひとつの選択肢であるとも言えるのです。

そして、より良く生きるための方法は多様です。自分ひとりでは得づらい気づきを得て、考え方や行動を変えるきっかけとなる方法は、カウンセリングだけではありません。

幸福タイプ診断をリリースしました! 

そんなわけで、慶応大学システムデザインマネジメント研究科の前野隆司先生と、その奥様で同研究科研究生の前野マドカさんの監修のもと、幸福タイプ診断テストとワークを開発しました。

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ご夫婦で幸福研究だなんて…なんて幸福なご夫婦なんだ。。

 

前野先生の研究によれば、幸福感と関係のある因子は4つに集約されます。

第1因子 「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)

・コンピテンス/社会の要請/個人的成長自己実現

第2因子 「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)

・人を喜ばせる/愛情/感謝/親切

第3因子 「なんとかなる!」因子(まえむきと楽観の因子)

・楽観性/気持ちの切り替え/積極的な他者関係/自己受容

第4因子 「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)

・社会的比較のなさ/制約の知覚のなさ自己概念の明確傾向/最大効果の追求

 詳しくはこちらの書籍を参照

 

この幸福タイプ診断では、この4つの因子のうち、自分はどこが強いのか、どこが弱いのか、を明確にしてくれます。自分にはどの要素が足りないのか?ということに気づくだけでも、考え方や行動を変えられるきっかけにできることもあります。

 

会員登録すると、あなたの「幸福タイプ」に合ったワークが配信されます。ぜひぜひ受けてみて、感想を聞かせて頂けると嬉しいです!

 

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オンラインカウンセリングのcotreeはこちらからご利用ください。

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「ふるさと」のおすそ分け

cotreeのユーザーさんの中には、海外在住の方がかなりの割合でいらっしゃいます。

海外の小さな日本人コミュニティの中で、身近な人には話せない悩みや不調を相談する相手として、cotreeのカウンセリングをご利用くださっています。このあたりは、対面援助が届かない方に援助を届けることができるという、オンラインだからこその価値だと思っています。

さらに言えば、実はカウンセラーさんの中にも、海外在住の方が数名いらっしゃいます。資格を持って実践経験もあるけど、ご主人の仕事の関係で海外在住とか。育休中のカウンセラーさんなども含め、通常の仕組みでは活躍しづらいカウンセラーさんの価値を発揮してお仕事をして頂けることも、オンラインだからこそです。

今日は、そんな海外在住のカウンセラーさんが一時帰国中とのことで、短い時間ながら一緒にランチを。サービスの現状、課題などをお話しする一方で、カウンセラーさんとしてのcotreeへのご意見やご提案を伺うこともできました。

まだまだ成長途上で、日々変化していくサービスに寄り添ってご意見をくださって、サービスを一緒に良くしていこうとしてくださるカウンセラーさんたちには本当に感謝しています。お会いしてお話しする中で改めて、関わってくださるカウンセラーさんの得るものがもっと大きいサービスにしていきたい、という思いが強まります。

そんな思いでいると、帰りがけにカウンセラーさんのホームであるアメリカ版GODIVAを頂きました。自由の女神とカウボーイとゴールデンゲートブリッジのイラスト。アメリカにカウボーイって今もいるんだろうか。

嬉しい。

 

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ランチをした同じカフェで、そのまま次の打ち合わせを。

先日のブログを見て「対面でないカウンセリングの可能性について学びたい」とご連絡を下さった学生さんです。

学生さんとは思えないほどに広い視野とご自身のスタンスを持った方で、未来に希望を抱かせる出会いでした。

そして彼女のふるさとである、浜松名産のうなぎパイを頂きました。夜のお菓子。…夜のお菓子?

…嬉しい。

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今日は、そのほかにも多様な打ち合わせが続きましたが、小さいながらも新しい事業をやっていると、日々、様々な「ふるさと」をお持ちの方と対話する機会を頂くことができ、その中で自分は何を知っていたのか、何を知らなかったのか、世界の広さや深さに気づかされます。

ふるさとのおすそ分けを頂きながら、サービスも自分自身も成長させてもらっている感覚が果てしないです。

少なくとも、受け取っている分くらいは。願わくばそれより多く、社会に対して価値を返したい、という、ささやかな希望が、自分のエネルギーの源泉になっている感じがしています。

 はぁ、おいしい。

精神科病院のないイタリアの話

今日はこちらのイベントに伺いました。

 イタリアの事例を参考に、地域生活中心の精神保健のあり方について考えるシンポジウムです。

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イタリアには精神科病院がないということをこの記事で知り、興味を持っていたところでした。もともとあった精神科病院をなくすという発想自体にも、それがひとつの国で現実に起こったことにも、驚きました。

 

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この改革はどうやってなしえたのか。

バザーリアという精神科医がまずひとつの地域での実績をつくって、それを国全体の動きに広げていきました。強い意志と信念とリーダーシップを持った人の存在が、社会を動かした事例です。

すでにあった病院を閉鎖するのではなく、新規の建設や入院をなくすことで、20年以上かけて精神病院が減っていったそうです。

 イタリアの改革では、精神科医フランコ・バザーリアが、北イタリアの小さな町、人口20万人のトリエステ県のマニュコミオの解体を始めたことに端を発している。後に「バザーリア改革」と呼ばれるようになった彼の改革は、「右手で病院を解体し、左手で地域ケアをつくる」と言われる改革であり、78年に「180号法」といわれる改革法を成立させ、以後精神科病院の開設は禁止された。彼の改革の中心にある思想はフッサールサルトルからの影響が大きく、「人は自分の狂気と共存でき、人生の主人公として生きることができる」という人間観による信念があった。 (出所:一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター

「人は自分の狂気と共存でき、人生の主人公として生きることができる」

いい言葉です。

悩みを抱えていても、病気であっても、それを抱えた「自分」として生きることはできる。恐れをなして蓋をする必要はなくて、むしろその狂気が人の味わいですらある。こんな風に捉えられるのは、排除や犠牲のうえに成り立つのとは違う、幸せな社会のひとつのかたちなのかもしれません。

つまり他を変えようとしてもこれ(精神病院)があるかぎりは,他がなかなか変わらないわけです.そのことにちゃんと気がついて,法律をつくるところまで持っていったのはイタリアだけなんですよね.

バザーリアはアメリカの脱施設化についても実際に見学に行っていますが,やっぱりそのやり方(精神病院を残したまま)ではだめだとわかった.つまり,病院があるとどうしても病院に依存してしまう.

薬があるとお医者さんの方が薬に依存してしまうのと同じことです.つまり薬を安易に出すことで,別の関係性を模索しないでよくなってしまうのです.

結局,問題があったときに,それをどうするか一緒に関わりながら考えることをやめてしまう.これは別に医者や看護師だけではなくて周りの地域の人も含めてです.みんなで考えるのをやめてこれは専門家に任しておきましょう,精神病院に入れておきましょうとなってしまう.「だって私達の問題ではないですから」と.それは一つの依存の形だと思います

(出所:フランコ・バザーリアとイタリアの精神医療改革

病院を少なくするのではなく、なくすこと。それは今まで病院にいた人たちを、社会の中で受け入れるということでもあります。脱施設化・脱制度化は、施設の外の社会の仕組みとあり方全体を変えていくことです。

施設の外の人たちは、施設や制度があると思うから、依存してしまう。頼るべきものがなくなれば、それぞれがその状況を何とか乗り切るため、最大限の工夫が生まれるんですね。

最初は差別や偏見などの問題もあるけれども、それを補う新しい仕組みが教育や就業の場で出来上がっていく。その様子についても、大変興味深くお聞きしました。

 

シンポジウムでイタリアの精神科の先生が言った

壁は人の頭の中だけにあります

という言葉も印象的でした。

 

「これがないとだめだ」と思っていることも、実際なくなってみればほかのやり方が見つかる。事前にだめな理由を考えすぎて前に進めないよりは、適度に考えたうえで小さくやってみて、だめだったことを変えていくという順番もありますよね。

 

学び多き日々です。

 

複雑化する社会と、地域包括医療と、メンタルヘルスケア

最近内田樹先生が、こんなことをつぶやいておられました。

  

ことたくさんの人を巻き込んだ仕組みづくりとかの話になると、個人レベルの細かいことを無視して「共通言語」を重視せざるを得ないので「単純化」せざるをえません。

価値aを持ってるAさんと、価値aと価値bを持ってるBさんと、価値cを持ってるCさんがいるときに、共通言語として価値aが社会的な価値軸として定められると、Aさんはありのままでいいけど、Bさんは価値bは社会的に認められづらくなるので価値bに沿った活動は減っていき、価値a寄りに変化する。Cさんは、自分の価値が社会的に認められないので、生きづらくなって、結局価値aに迎合せざるをえなくなる。ここでいう価値aは、今の社会で言うならば当然、資本主義の共通言語である「貨幣」と自然科学の共通言語である「エビデンス重視」です。

でもそれって、むしろ社会として「退化」してるよね(価値aを重視した結果、せっかく生まれた価値bや価値cなどの多様性が衰退してしまう)、複雑になることを選んでいかないと、社会として成長しないよね、という話のようです。退化とか進化とかの概念はともかくとして、少なくとも今までの社会では、この単純化の論理が働くことが多かった。

というのを前提に、最近はどんどん進んでいる社会の複雑化の事例の話。

学会で感じた「地域包括医療・ケア」の実態

先日とある学会にお邪魔した際のひとつのテーマとして、「地域包括医療」が盛り上がっていました。最近よく耳にする地域包括医療は、定義上はこんな感じ。

  地域包括医療・ケア(システム)とは

・ 地域に包括医療・ケアを、社会的要因を配慮しつつ継続して実践し、住民が住み慣れた場所で安心して生活出来るようにそのQOLの向上をめざすもの
・ 包括医療・ケアとは、治療(キュア)のみならず保健サービス(健康づくり)、在宅ケア、リハビリテーション、福祉・介護サービスのすべてを包含するもので、施設ケアと在宅ケアとの連携及び住民参加のもとに、地域ぐるみの生活・ノーマライゼーションを視野に入れた全人的医療・ケア
・換言すれば保健(予防)・医療・介護・福祉と生活の連携(システム)である
・ 地域とは単なるAreaではなく、Communityを指す

 (出所:全国国民健康保険診療施設協議会

なるほど、わかったようなわからないような。「結局どういうこと?」と言いたくなります。そんな気持ちで学会の発表を聞いていたところ、複数の登壇者のこんな発言。

「地域包括ケアは、それぞれに定まった定義はないくらいふわっとしている」
「地域包括ケアシステムは謎である」
「我々も地域包括ケアのどこに位置するんだかわからない」

 

ふわふわ… 謎… わからない…

誰もよくわかってない…!!

 

ということがよくわかりました。

というよりは、地域包括ケアは大事な考え方で、実現していかなければならない、ということははっきりしているんだけど、その全体像や方法論は説明しづらい。

ちなみに厚生労働省によれば

地域包括ケアシステムは、保険者である市町村や都道府県が、地域の自主性や主体性に基づき、地域の特性に応じて作り上げていくことが必要です。

つまり、地域の特性に応じて「最適な地域包括ケアシステム」のあり方が異なるので、「で、結局どういうこと?」という単純な理解がしづらい構造がある、ということです。ちなみに概念図がこちらです。

 

 地域包括医療の概念図(出所:全国国民健康保険診療施設協議会

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…複雑。

従来型の医療は「医師」が「患者」を治す、という二者関係のシンプルな構造でした。それが、その仕組みではどうもお金・人といったリソースが足りそうにないし、個別化したニーズを満たすこともできそうにない、となったときに「地域包括医療・ケア」という動きが生まれます。そして地域包括医療、となると、方法論や当事者が増えて、価値軸が増えて、人口とか関係性とか資源とかの変数も増えます。

今までの画一的な医療のあり方から、地域医療にシフトしていくというのは、近代社会の中で単純化した枠組みを「再・複雑化」させていくことでもあります。だから、単純化した仕組みをつくるよりも難しいし、つかみどころがなくて、「単純化」のプロセスよりも時間とエネルギーが必要なのでしょう。

全員にわかるように絶対的価値に基づいた定型を「定義」するよりも先に、モデルケースをいくつもつくっていく。そして自分のところに近いモデルケースを、それぞれが工夫しながらあてはめていく。その中には試行錯誤が必須で、間違えたり、失敗したりしながら、少しずつ複雑なエコシステムが育っていくのだと思います。

メンタルヘルスケアの世界の単純化と複雑化

心理療法の世界も、社会の単純化の流れとともに変化してきました。

一対一の関係性や個別の物語を重要視した、ある意味非効率で複雑な力動的心理療法から、エビデンスプロトコルを重要視し、相対的には効率的で単純化可能な認知行動療法へ、というこの数十年でのシフトはその象徴的な流れだったのだろうと思います。

cotreeはインターネットを活用したオンラインカウンセリングのサービスですが、一見すると今まで1対1の複雑な人間同士のつながりであったものをデジタル化するような、「心のケアを単純化する」という世界観に基づいているように見えるかもしれません。

まずは単純化した世界観をオンラインで再現する、という目下の課題も確かにあるのですが、将来的に目指すところは、心のケアの「再・複雑化」なのかもしれません。

今までにも「テクノロジーでできることはテクノロジーで代替する、その分、人にしかできないことを人が存分にできるような仕組みづくりをする」という言い方をしてきましたが、これって新しい技術や知見の蓄積や効率的な方法論の採用によって、一度単純化した心のケアを、再度複雑化することを可能にする、ということなのかな、と再認識しました。

つまり、限られた資源の中でも単純化されない個々人に最適なケアを、ひとりひとりの相談者に届けていく、というのが、cotreeが思い描く「いつか実現したい未来」でもあります。

自分たちだけで実現できるとも思っていないし、そんな壮大な絵を語るのが憚られるくらいにまだまだ小さな一歩を踏み出したにすぎないですし、cotreeがその複雑化した未来の中の一翼を担えるといいなぁ、くらいの感じではありますが、そのために今何ができるんだっけ、という試行錯誤と、地道で小さくて単純な作業に向き合う毎日です。

あんまりこんな抽象的なことを考えても、現実としてできることは限られているのですが。

社会の中でcotreeが果たす役割はなんだろう、という考え事の言語化として。

そして、一緒に試行錯誤してくれる仲間(cotreeのメンバーとしても、広く業界の仲間も)を募集しています。cotreeのメンバーとしては、今は特に、心理職の方を募集しています。ぜひご連絡ください-> sakuramoto@cotree.jp